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森鴎外『阿部一族』【武士の倫理観「情けは情け、義は義!」】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【武士の倫理観について】

 令和の時代に生きるわたしたちにとって「武士の倫理観」ほど、理解に苦しむものはないでしょう。例えば武家社会の慣習だった「切腹」や「殉死」の話題になると、誰もが眉をひそめて、「あの時代に生まれなくて良かった」と言うだけです。

 けれども今から150年くらい前までは当たる前のように行われてきた慣習でした。言うまでもなく武士は本来、戦場で戦うことが仕事です。つまり、武士にとって「死」は常に隣り合わせにいて、幼い頃より、死への恐怖心を克服するよう訓練されていたのです。

 それは江戸時代になり、太平の世の中になっても引き継がれていきます。徳川光圀は、「生きるべきときに生き、死ぬべきときにのみ死ぬことを、本当の勇気」と、言いました。この言葉の “ 死ぬべきとき ” を、武士は「名誉を汚されたとき」と、解釈します。

 現在に置き換えるなら「プライドを傷つけられたとき」と言えましょうか。まあ、そんな単純なものではないでしょうが・・・。ともかくとして、現代に生きるわたしたちには理解され難い「武士の倫理観」を、森鴎外は『阿部一族』を通して見事に伝えています。

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森鴎外『阿部一族』【武士の倫理観「情けは情け、義は義!」】

森鴎外(もりおうがい)とは?

 明治・大正期の小説家、評論家、軍医です。本名・森林太郎。(1862-1922)
森鴎外は文久2(1862)年、石見国(島根県)津和野藩主の典医、森静男の長男として生まれます。明治14(1881)年、東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医となります。

 4年間のドイツへ留学を経て、帰国後には、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆します。以後は軍医といった職業のかたわら、多数の小説・随想を発表していくこととなります。

 軍医の職を退いた森鴎外は、大正7(1918)年、帝国美術院(現:日本芸術院)の初代院長に就任します。その後も執筆活動を続けていましたが、大正11(1922)年、腎萎縮、肺結核のために死去します。(没年齢:満60歳)

 近代日本文学を代表する作家の一人で、『舞姫』の他にも、『高瀬舟』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『ヰタ・セクスアリス』といった数多くの名作を残しています。

    森鴎外

森鴎外【他の作品】

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短編小説『阿部一族』(あべいちぞく)について

 『阿部一族』は、森鴎外が著した短編小説で、大正2年(1913年)1月号の『中央公論』誌上に発表されます。

 寛永(かんえい)年間(1624~1644)に肥後(ひご)国(熊本県)細川藩に起きた殉死をめぐる悲劇的事件を取り上げた歴史小説となっています。作中にも登場する柄本又七郎などの証言を元にした『阿部茶事談』を下敷きに構成されています。

 ちなみに前年の大正元年、明治天皇崩御の際に乃木希典陸軍大将が殉死します。当時はその是非をめぐる議論が盛んでした。『阿部一族』は、こうした当時の世相を反映したものとなっています。

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『阿部一族』あらすじ(ネタバレ注意!)

 寛永(かんえい)十八(1641)年の春、熊本藩主・細川(ただ)(とし)(56歳)が病で亡くなり、その遺骸(いがい)飽田郡(あきたごおり)春日村(かすがむら)(しょう)雲院(うんいん)荼毘(だび)()され、高麗門(こうらいもん)の外山に葬られました。このとき忠利が寵愛(ちょうあい)していた二羽の鷹が、境内の井戸の中に飛び込んで死んでしまいます。

荼毘(だび)死者を火葬にすること。

 人々は「鷹も殉死したのか」と、噂をしました。それは藩主が亡くなってから十余人の殉死者が出ていたからです。殉死には(殿様のお許しを得なくてはならない)といった掟があります。その許しがないのに死ぬのは犬死(いぬじに)と言われていました。

 殉死した中に内藤長十郎という者がいます。長十郎は十七歳とまだ若輩の身でしたが、忠利に目をかけられ(そば)で仕えていました。かつて長十郎は酒で失錯をし、忠利に許されたことがあります。長十郎は(その恩に報いなくては)と、殉死を願い出ます。

 忠利は最初、殉死を許しませんでした。けれども、決して諦めようとはしない長十郎に、忠利はついに認めます。長十郎は晴れ晴れとした気持ちになります。(もし自分が殉死しなかったら、恐ろしい屈辱を受けるに違いない)と、心配していたからでした。

 また、殉死者の遺族は優待を受けるため、長十郎は(安心して死ぬことができる)と、思います。こうして長十郎は母や妻、そして弟に殉死のことを明かし、普段と同じように一家四人で食事をとり、菩提所(ぼだいしょ)東光院へと行き、腹を切ったのでした。

 このように殉死の願いをして許された者は、長十郎を含めて十八人いました。いずれも忠利の信頼していた侍たちです。ですから忠利も本心では、嫡子・(みつ)(ひさ)の為に残しておきたい気持ちがありました。一緒に死なせるのが残酷なことだとも十分感じています。

 けれども、彼らが生き延びた場合、(家中一同から恩知らずとも卑怯者とも言われ、口惜しい思いをするであろう)と考えた忠利は、切ない思いをしながら「許す」と言わずにはいれなかったのでした。

 殉死者の中には身分の低い者もいました。忠利の犬牽(いぬひ)き(猟犬(りょうけん)係)をしていた津崎五助もその一人です。殉死のお許しは受けたものの家老たちは、「そちは殿様のお犬牽きではないか」と言い、死ぬことを思いとどまるよう説得します。

 けれども五助はそれを聞かず、死所(しにどころ)と決めていた寺に殿様のお供をしていた犬を連れて行き、犬ともども殉死を遂げたのでした。このように忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに―――阿部弥一右衛門という者がいました。

 弥一右衛門は早くから忠利の側近くに仕えていて千百石余の身分になっています。家中の者は皆、弥一右衛門が殉死するものだと思っていて、当人もまた忠利に殉死を願っていました。けれども何度願っても忠利は許してくれません。

 弥一右衛門ほど、仕事熱心で、万事に気が付き、手抜かりがない者はいませんでした。その一方、どこか親しみ難く、隙のない男で、忠利もそんな弥一右衛門を内心好ましくは思っていなかったのです。結局、弥一右衛門が何度願っても、殉死の許しを得ないうちに忠利は亡くなってしまったのでした。

 弥一右衛門は(自分の身分で殉死せずに生き残ることはできまい。犬死と知って切腹するか、それとも、浪人となって熊本を去るか)と、考えながら勤めていましたが、熊本中は十八人の殉死の噂で持ち切りでした。

 それから二、三日後、弥一右衛門の耳に許しがたい噂が聞こえてきます。それは「阿部はお許しのないことを幸いに生きている」というものでした。それを聞いた弥一右衛門は、家に五人の子供たちを集めて、腹を切ることを告げます。

 そして弥一右衛門は、「お許しのなかったおれの子だと言って、お前たちを(あなど)る者もあろう。しかし運じゃ仕方がない。兄弟喧嘩をするなよ!」そう言い残すと、弥一右衛門は子供らの前で切腹し、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだのでした。

 五人の子供たちはこのとき悲しくもありましたが、同時に、重荷の一つをおろしたように感じます。そして子供たちは誓い合いました。「追腹はお許しの出た殉死とは違う。どういう目に逢っても、自分たち兄弟は離れ離れにならず、固まっていこう」と。

 嫡子・光尚の家督相続が済み、殉死の侍十八人の家々は、嫡子にそのまま父の跡を継がせることができました。けれども阿部弥一右衛門の遺族は一種変わった跡目の処分を受けます。それは、弥一右衛門の知行を子供たちで分配するといったものでした。

 一族全体の知行に変わりはありませんでしたが、本家を継いだ長男の権兵衛は小身者に成り下がったのです。この裁きは、真の殉死者と弥一右衛門の間に区別をつけなければならないと考えた大目附役・林外記によるものでした。

 藩主・光尚もまだ経験が浅く、林外記の(げん)を用います。これにより阿部家への侮蔑が(おおやけ)に認められる形になったのでした。権兵衛の兄弟は次第に、家中の者から(うと)んじられるようになり、不満を抱える日々を送るようになっていきました。

 寛永十九(1642)年の三月、忠利の一周忌の席でのことです。殉死者遺族の一人として忠利の位牌の前に進んだ阿部権兵衛でしたが、焼香後に脇差で(もとどり)(髪の毛を頭上に集めて束ねたところ)を切って、位牌の前に供えたのでした。

 不意の出来事に他の侍たちは驚き、権兵衛を詰問します。すると権兵衛は、「不肖にして父同様の御奉公が出来ぬと見えて、お上は知行を割いて弟たちに分配された。これでは亡き父にも一族の者にも面目がない。いっそのこと武士を棄てようと決心いたした。」と、語ったのでした。

 その話を(面当(つらあて)がましい所業)と、不快に思った光尚は、権兵衛に対し、おし籠め(蟄居・謹慎)の措置を下します。それを聞いた阿部一族は、一周忌の法会(ほうえ)のために逗留していた天祐和尚にすがり、処置の軽減を頼みました。

 気の毒に思った天祐和尚は、「助命だけは申してみよう」と言います。けれども(天祐和尚の逗留中に沙汰をしたらきっと助命を請われに違いない)と思った光尚は、和尚が立つまで何の沙汰も出しませんでした。

 天祐和尚が熊本を立つと光尚はすぐに、阿部権兵衛を縛首(しばりくび)にさせます。阿部一族は集まって評議しますが、(武士らしく切腹させるならまだしも、権兵衛が縛首にされた以上は、一族の者も奉公は出来ぬであろう。ともに死ぬ他はない)と決心し、権兵衛の屋敷に立て籠ったのでした。

 そして阿部一族の者は、討手の来る前夜、邸内を隅々まで掃除してから酒宴を開きます。その後、老人や女性は自殺し、幼い子供を刺し殺します。こうして権兵衛の弟四人以下、若い家臣どもは、討手を待ち受けたのでした。

 権兵衛の屋敷の隣に、柄本又七郎という武士が住んでいました。柄本家と阿部家は親しく交流していて、又七郎は、殉死を願っても許されないことから発した一連の出来事を気の毒に思っていました。また次男の弥五兵衛とは槍仲間でもありました。

 けれども細川家に仕える身分であるため見舞いに行くことは許されません。そこで又七郎は、自分の代わりに妻を見舞いに行かせます。阿部一族は、この行為に心から感謝します。その一方で又七郎は(情けは情け、義は義である)とも考えていました。

 討手の先頭に立つことになったのは竹内数馬という二十一歳の侍でした。島原討伐のとき手柄を立て、忠利から褒美として関兼光(せきかねみつ)の脇差や加増を受けていました。そんな数馬が討手を命じられたのは林外記が光尚に「先代忠利への御恩返しにさせなされ」と、進言したからです。

 そのことを聞いた数馬は討ち死にを決意します。周りから自分が、(殉死をするはずなのに、殉死をしないで生きながらえている)と、見られていることを知ったからでした。

 寛永十九年四月二十一日、竹内数馬を先頭とする討手は、阿部一族の立て籠っている屋敷へと討ち入ります。と同時に、燐家の柄本又七郎は、竹垣を踏み破ると、阿部の屋敷へと駆け込んで行きました。

 そして弥五兵衛に「手並みを見に来た」と言い、槍を交えます。戦いの末、又七郎の槍は弥五兵衛の胸を突き抜きます。深手を負った弥五兵衛は座敷に行くと腹を切りました。その又七郎も弥五兵衛の弟・七之丞に太股を突かれ、その場に倒れます。

 竹内数馬は、戸を開けて中に飛び込んだ瞬間、左右の脇腹を槍で突き抜かれ、死んでしまいました。壮絶な戦いの末、討手のほうも多くの死傷者を出します。一方、阿部一族の者は―――ことごとく死に絶えたのでした。

 光尚は討手に加わった者たちの労をねぎらいました。阿部一族の死骸は、川で洗われ、吟味されます。その中でも弥五兵衛の傷は誰の傷よりも立派だったので、傷をつけた柄本又七郎は一層面目を施したのでした。

青空文庫 『阿部一族』 森鴎外
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『阿部一族』【解説と個人的な解釈】

 先にも触れましたが『阿部一族』は基本的に、『阿部茶事談』に基づいて構成されています。登場人物も同じです。けれども、登場人物の性格や心理面はあくまで鴎外の想像によるものです。

 物語は、忠利が、阿部弥一右衛門一人にだけ殉死を許さなかったという、気紛れと言うべきか、それとも意地の悪さと言うべきか、ともかくとして、この出来事が発端となり、阿部一族の運命が滅亡へと向かっていくというものです。

 主君への忠義といった点では、阿部弥一右衛門と他の殉死者十八人は、別段変わりがなかったように思われます。実際、弥一右衛門は千石余の高禄を貰い、忠利の側近くに仕えていました。けれども、弥一右衛門一人には殉死の許しが出ません。

 鴎外は弥一右衛門が殉死を許されなかった理由について “ 肌が合わなかったから ” と、しています。弥一右衛門の長男・権兵衛が髻を切った件においても、理由を聞く限りでは納得できます。けれども権兵衛もまた縛首という武士として恥ずべき処分を科せられます。

 実際、人間には好き嫌いというものがあります。それは認めますが、一国を預かる身分としては、あくまでそれは「私情」と言えるでしょう。忠利、そして光尚、二人の君主は、「公」の処置に「私情」を挟んでいるのです。

   石本新六

 では、鴎外が何故、登場人物をこのように描いたかと言うと、それは陸軍省医務局長のとき、当時の上官・石本新六(後に陸軍大臣)との確執があったからではないかと言われています。(石本の在職中に鴎外は、二回辞職を申し出ている)

 あくまでわたしの想像でしかありませんが、鴎外もまた弥一右衛門と同じように、隙が無く、どこか親しみ難い人間だったのかもしれません。ですから、弥一右衛門に自分自身を重ね、我が身の将来を憂慮していたのではないかと考えてしまいます。

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あとがき【『阿部一族』の感想を交えて】

 冒頭で「武士の倫理観」について書きましたが、言い忘れたことがあります。それは「忠義」についてです。幕藩体制は秩序を維持するために「忠義」を説き、主君を絶対化しました。主君の言うことは絶対なのです。

 燐家の柄本又七郎は阿部家と親しく交流していました。けれども討手でもないのに、安部家に討ち入って、弥五兵衛の胸を槍で突き抜くのはそんな理由からです。「情けは情け、義は義」と考えるのは自然だったのです。

 『阿部一族』を読むと、武士というものは “ 名誉のために生き、名誉のために死ぬ ” 人種だったと想像できます。後ろ指をさされることを極端に嫌い、恥ずかしめを受けるくらいなら死を選ぶ。そんな人たちです。

 勿論武士の例は極端過ぎますが、現代に生きる日本人にも多少の名誉心と忠義心は残っているものと考えます。とは言え、組織の舵をとる人間が愚かなら、船から降ろさなければなりませんが。

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