はじめに【言挙げとは?】
日本古来から伝わる言葉に大和言葉というものがあります。
大和言葉を聞くと、どこか懐かしく、心に染みるのは何故でしょう。
それは、日本の風土のなかで生まれ、大切に育まれてきた日本固有の言葉だからなのです。
大和言葉は、響きの美しさと意味の奥深さを特徴としていて、使うものに安らぎさえも与える、温もりのある優しい言葉です。
そんな大和言葉のひとつに『言挙げ』という単語があります。
言挙げとは、言葉の力を頼って、大声で言葉を発したり、多言したりすることを言います。
詳しく説明すると、(自己主張する、自己宣伝する、言い訳する、理屈(屁理屈)を言う、自己を正当化する、口論する、人の悪を言い立てる、言わなくてもいいことを言う、実行できないことを壮語する)等々のことです。
それでは、『言挙げ』を主題に文章を進めていきたいと思います。
言挙げしない国、空気を読む習慣【日本人の言葉について】
大和という国は、言挙げをしない国
かつて、日本という国は、信頼関係さえあれば、大声も多言も必要ないという文化でした。
柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)が歌集の歌に曰く
葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国
(葦原の瑞穂の国、かの国は神々のみこころのままに言挙げなどしない国。)
然れども言挙げぞ我がする言幸く
(しかし、しかし、私はあえて言挙げをする。わが言葉のとおりに)
ま幸くませとつつみなく幸くいまさば荒磯波
(ご無事であられますようにさしさわることなくご無事であったなら荒磯に寄せ続ける波ではないけれど)
ありても見むと百重波千重波にしき言挙げす我は
(変わらぬ元気な姿でと百重波千重波、その波のように繰り返し繰り返し言挙げをいたします、私めは)
〔言挙げす我は〕(作者不記載歌、巻十三の三二五三)
柿本朝臣人麻呂とは飛鳥時代の歌人です。
このように、言挙げをしない日本の習慣は、いにしえの時代にまで遡ります。
武士に二言はない
ひきつづき武士の世になると、“ 言挙げをしない ” ことが一種の美意識のような風潮となり、それが武士階級の倫理観や道徳規範の根幹となっていき、「武士に二言はない」「他言は無用」といった、現代に生きるわたし達がイメージする武士像そのもののかたちになっていきます。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という一句で有名な、武士道の書『葉隠』(山本常朝口述)聞書第一の一文にもこうあります。
物をいはず、言はで叶はざる事は、十言を一言で濟ます様にと心掛けし也。
(物を言わず、言わずにはいられない事は、十言を一言で済ます様にと心掛ける。)
武士とは、奥ゆかしく、寡黙であることが美しいと、この書は語っています。
例え、武士ほどの厳しさはなくても、こうした多弁より寡黙をよしとする規範は、広く庶民のあいだにも広まっていき、それが日本人全体の習慣となっていきます。
以心伝心
普段、わたし達が何気なく使っている『以心伝心(心を以って心に伝える)』とは、文字のとおりで、言葉に頼らず、互いの心から心に伝えるといった意味を持つ言葉です。
つまり日本では、言語で説明できない深遠・微妙な事柄を相手の心に伝えて分からせるという、言わば独特なコミュニケーションが、ときどき取られることもあります。
このように、慎むこと、控え目なこと、謙虚なことを美しいと考えるのは、日本人特有の美意識と言えます。
日本という国は島国です。
島国だからこそ、“ 言挙げをしない ” 美意識が生まれたのでしょう。
単一の日本民族は、濃密なコミュニケーションのできる平和な社会を形成してきました。
「以心伝心」すなわち、現代社会を生きるわたし達が多く直面する「空気を読む習慣」も、その恵まれた日本の歴史の産物であると言えます。
あとがき【言挙げすることも大事!けれども・・・】
日本以外の世界、すべてが言挙げする国です。
日本という国だけが例外なのです。
グローバル化を経て、日本民族だけの平和な社会は、もはやどこにも存在しません。
現在社会では、ときと場合に応じて、積極的に言挙げをしていかなければならない場面もあるでしょう。
しかしながら、同時に “ 言挙げをしない ” 文化も、将来のある子供たちに残していかなければなりません。
何故なら、そこには人を思いやる心が、控えめに寄り添っているからです。
良寛の『九十戒語』から日本人の言葉を今一度考える!
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