スポンサーリンク

西郷隆盛『敬天愛人』の精神【島津斉彬の人材育成術!】

こころを豊かにするメソッド
スポンサーリンク
スポンサーリンク

はじめに【虫よ虫五ふし草の根を絶つな】

 虫よ虫 五ふし草の根を絶つな
 絶たば己も共に枯れなん


 五ふし草というのは稲のことです。つまり、「稲の根を絶てばそれを収入の源にしている役人自身も死んでしまうではないか。だから稲、すなわち農民のことをもっと大切にしなければならない。」といった意味の詩です。

 この詩は西郷隆盛の上役、郡奉行の迫田太次右衛門が役職を辞したとき、西郷に送ったとされる詩です。まだ下級役人だった西郷の胸に、この詩は深く突き刺さりました。

 その後の回天動地の働きは皆さまの知るところでしょうが、西郷隆盛という傑物(けつぶつ)も、自分一人の力では大きくなり得ませんでした。藩主・島津斉彬によって彼の心は育まれたといってもいいでしょう。

スポンサーリンク

西郷隆盛『敬天愛人』の精神【島津斉彬の人材育成術!】

西郷隆盛(さいごうたかもり)とは?

 西郷隆盛は薩摩藩士であり、幕末、明治維新の指導者です。(1828-1877)

 藩主・島津(なり)(あきら)に取り立てられた西郷は、江戸詰となり将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動に奔走しました。しかし、井伊直弼の大老就任とともに始まる「安政の大獄」で、幕吏の追及を受け、僧月照とともに帰藩します。

 その後、投身自殺を図ったり、二度の島流しにあったりと不遇の時代を過ごしますが、1864年の帰藩後からは、討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新の三傑の一人と称されます。特に幕臣・勝海舟との江戸城無血開城は有名です。

勝海舟に学ぶ『心配性』と決別する方法!【『氷川清話』より】
福沢諭吉『瘠我慢の説』【身の清潔さ・貧しさこそが誇り!】

 維新後は参与・参議として廃藩置県を断行しましたが、1873年「征韓論」を唱え、敗れて下野します。帰郷して鹿児島に私学校を開設します。しかし、その私学校生徒たちの反乱を引き金に、西南戦争を起こし、敗れて城山で自刃(じじん)してしまいます。(享年51歳)


西郷の親戚を参考にエドアルド・キヨッソーネが想像で描写

島津斉彬(しまづなりあきら)とは?

 島津斉彬は幕末の薩摩(鹿児島)藩主です。(1809-1858)
早くから西洋文明に関心を抱いた斉彬は、藩営の工場「集成館」を設立し、殖産興業、特に洋式兵備の充実につとめます。

 製錬所、反射炉を設置し、日本初の軍艦を建造したほか、紡績機械を輸入して実用化に成功します。将軍継嗣(けいし)問題では、一橋派の推進者となり、幕政改革を企図していましたが、安政5年7月16日に急死してしまいます。

 西郷吉之助 (隆盛)、大久保一蔵 (利通) ら、能力のある下級武士を藩政に登用したことでも知られ、松平慶永(福井藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称されました。


  島津斉彬

島津斉彬の人材育成術!!

正義感溢れた若き日の西郷

 若いころの西郷隆盛は薩摩藩の地方役所の下級役人でした。主な仕事は農民から税を取ることです。ところが、このころの地方の役所は腐敗していました。

 賄賂を届ける農民の税は安くし、賄賂を持ってこない農民からは、どんなに暮らしが困っていようとも、高い税を取るといった酷い有様でした。

 西郷がある農家に宿泊したときのことです。深夜にもかかわらず牛小屋から話し声が聞こえてきました。不審に思った西郷が牛小屋のほうに近寄ると、家の主人が牛に向かって泣きながら語りかけていたのです。

 「お前ともいよいよお別れだ。お役所に税を納めるために、明日お前を売らなければならない。今までほんとうによく働いてくれた。ありがとうよ。」

 この姿を見た西郷は怒り狂い、翌日には藩主・島津斉彬宛に意見書を書きます。それは斉彬が藩主になると同時に「身分に関係なく何か意見があったら、遠慮なく意見書を出すように。」と触れたからでした。

 ところが、届けられたはずの意見書への反応はありません。西郷は「結局、斉彬さまが藩主になっても同じか……。」と愁い、同時に憤慨します。

 それでも西郷は諦めませんでした。役所の腐敗の実態を意見書に書いて、何度も提出します。しかし、何度出しても音沙汰はありません。役所の先輩たちは、そんな西郷の姿を見て、嘲笑っていました。

斉彬が西郷に諭したこととは?

 そんな西郷が突如、島津斉彬から呼び出されました。
鹿児島城内で斉彬は直接、西郷を引見(いんけん)します。斉彬の脇には、西郷が今まで書き送った意見書が全て重ねられてありました。

 そして西郷に「この意見書は全て読んだ。しかし返事を出さなかったのは考えがあったからだ。」といい、続けて「自分が正しければ、人を裁いていいという姿勢が周囲の理解を得られないのだ。」と、いいます。

 いきなり妙なことをいわれた西郷は戸惑ってしまいます。西郷はあくまでも “ おれが正しい ” と思っていて、頭に血がのぼっていたからでした。そんな西郷に斉彬は、静かにこんこんと語り続けます。斉彬がいったこととは次のようなことでした。

  • 正しいことを考え出す。
  • その正しいことを実現する上で、協力者がいるかどうかを確かめなければならない。
  • もしも協力者がいなければつくり出さなければならない。
  • それには何よりも、自分に私利私欲がないかどうかを確かめることが必要だ。
  • 私利私欲があった場合、他人は必ず疑うし警戒もする。もちろん協力などしない。
  • したがって、正しいことを実現しようと思ったときは、まず自分に私利私欲がないかどうかを確かめ、その上で今度は協力者をつくるということに努力しなければならない。

 

 こういうプロセスを話したのち、斉彬は西郷にいいます。

 「おまえは、すべて自分が正しいと思っている。そして、そういう自分を重用せずに、賄賂ばかり取る役人を重用しているのは、その役所のトップがダメだからと書いてきた。が、ひとつだけ、おまえにいっておくことがある。」

 「実をいえば “ いまの役所で西郷ほど優秀な人材はおりません。どうか早くお城に引き上げて、引き立ててやって下さい ” と書いてきているのが、そのダメなトップなんだぞ。おまえはそのことを知っているのか。」

 西郷は衝撃を受け、さすがに色を失ってしまいます。
そして(自分が今度島津斉彬に直接呼ばれたのも、自分がダメな上役だと決めつけ、悪口ばかりをいって告発してきた、上役の推薦があったからなのだ)と、初めて気付かされたのでした。



 斉彬は、西郷の心理の変化を、きちんと見抜いた上でこう話します。

 「おまえの正義感は大変たのもしいと思う。が、その怒りを、もっと大きな怒りに変えなさい。つまり、世の中に対する怒りに変えるのだ。そのためには、西郷よ、もっと目を大きく開け。」

 西郷は平伏し、「私の命は斉彬さまに捧げます。」といいました。
斉彬は思わず笑い出してしまいます。

 「簡単に、人間が命を投げ出してはいけない。命を投げ出すのなら、私のためではなく、日本の国民のために投げ出してくれ。」

西郷の目を開かせるために斉彬が命じたこと

 島津斉彬は、西郷隆盛を自分の秘書にします。けれども近くで使うのではなく「江戸に行け」と命じたのでした。江戸は情報の集積都市です。ですから優秀な人物がたくさんいました。

 そして斉彬は「おまえは直情径行の悪いクセがある。極力感情を殺して、理性を前面に出すようにしろ。」といい、次に「水戸藩の家老・藤田東湖に会え」といい含め、次のようなことを教えます。

  • 自分を変えていくためには、何よりも情報を集めなければならない。
  • 情報はただ集めるだけでは役にたたない。分析してどういう問題点が含まれているかを確かめなければならない。
  • その問題点を確かめるだけではなく、解決策を導き出さなくてはならない。
  • しかし、解決策は決してひとつではないはずだ。二つも三つもある。それが選択肢だ。
  • このいくつもの選択肢の中から、どれが一番いい解決策なのか、二番目にいい策はどれか、ということを順を追って考えろ。そして、最後には、自分の判断で一番いいと思われる選択肢を選び取ることだ。

斉彬の人材育成論【他者に委ねる!】

 島津斉彬は西郷を育てるといっても、自分ひとりでやるということはしませんでした。西郷の目を大きく開かせるには「自分よりも、藤田東湖のほうが優れた育成者だ。」と考え、それを実行します。

 つまり斉彬は、自分の弟子を他者に委ねるといった広い気持ちを持っていました。この点、了見の狭い人間は、よく後輩や弟子を独占したがります。そして「あいつはおれが育てたんだ」と自慢したがります。

 斉彬は、「ひとりの人間を育てるのは、ひとりである必要はない。多くの人間がいい肥やしを与えてくれれば、何が自分に一番効くかは、育てられる側が自分で判断すべきだ。」という考えを持っていました。

 斉彬は、西郷隆盛の持つ清純な魂もよく理解していました。

 「しかし、このままでは逆に美しいがゆえにつぶれてしまう。」と考え、「どんな正しいことでも、協力者がいなければ、人間ひとりでは何もできない。」ということを西郷に教えることが必要でした。

 こうした島津斉彬の温かい育て方のおかげで、西郷隆盛は大きく成長します。そして、明治維新を実現する巨人のひとりにまで育ったのでした。

スポンサーリンク

あとがき【西郷隆盛の座右の銘『敬天愛人』について】

 「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」
(西郷南洲顕彰会発行『南洲翁遺訓』より抜粋)

 西郷隆盛の座右の銘『敬天愛人』とは、つまり “ 天をうやまい、人を愛すること ” という意味の言葉です。

 この言葉に触れるたびにわたしは「果たして自分は、このように生きているのか」といったことを考え、同時に「いや、全然できていない」と、情けなくなってしまいます。

 けれども、自分自身が未熟なことを知りつつも、「このような生きることができたなら?」と想像するだけでも、人を愛する第一歩なのではないか、なんて都合よく考えたりしています。ますます、情けないことなのですが・・・。

コメント

タイトルとURLをコピーしました