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『鎖国時代の漂流民』が実践した語学を修得する術!!

こころを豊かにするメソッド
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はじめに【人生死ぬまで勉強】

 同じ日本人で、「三か国語を話せます」と、言う人がいたなら、周りから羨望せんぼうの眼差しを向けられることでしょう。就職や転職にも断然有利です。

 実はわたしも一度だけ、かつてCMで盛んに流されていた『駅前留学』とやらに体験留学したことがあります。あくまで体験ですから、上達したかについては、どうか察して下さい。

 昨今では翻訳ソフトなるものが進化を遂げ、それを介すだけである程度の会話は成立します。けれども、本当の意味でコミュニケーションを図れているかを考えると疑問符が付くでしょう。

 日本人が、外国語の取得を不得手ふえてとする理由のひとつに、島国だからということもあると思います。例えば日本が地理的に他国と接していたなら、異なった結果になっていたかも知れません。

 “ 人生死ぬまで勉強 ” という言葉を良く耳にしますが、いざこれから語学を学ぼうと思っても、あれこれ理由をつけて、前に進めずにいる自分がいます。

 そこで、自らの意思とは別に、思わぬ運命の力で異国に渡ってしまった先人を参考にしながら、“ 学び ” について考えてみたいと思います。

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『鎖国時代の漂流民』が実践した語学を修得する術!!

ガールフレンドを通して英語を学んだジョン万次郎

 鎖国時代、漂流民として見知らぬ国にたどり着いた日本人は、異国の言葉や風習をどのように、またどの程度、自分のものにしたのでしょう。

 勝海舟らの遣米使節けんべいしせつに通訳として加わるジョン万次郎(中浜万次郎)の例は比較的よく知られています。1841年、土佐沖で難破、捕鯨船に救出され、14歳でアメリカに渡った万次郎は、10年後に帰国し、初の英会話教科書をあらわすなど幕末随一の英語使いとなりました。

 10代の万次郎は滞米中、知り合いの少女に英語の詩まで書き送っています。
つまり、日常会話はもちろん、それ以上の英語力があったことは、この逸話から想像できます。

 ちまたでは外国人のボーイフレンド、ガールフレンドを作ると外国語能力が上がるとささやかれていますが、万次郎の場合もこの例に含まれるかも知れません。また、14歳と比較的若いうち英語に触れたのも大きいと思われます。

ジョン万次郎(中浜万次郎)とは?


中浜万次郎/1880年(明治13年)頃の写真

 中浜(なかはま)(まん)次郎(じろう)は、江戸末期の幕臣、英学者です。(1827〜1898)
土佐(高知県)中浜村の漁師の子でしたが、天保12(1841)年出漁中に遭難し、アメリカの捕鯨(ほげい)(せん)に救われます。

 その後、アメリカのマサチューセッツ州に行き、船長の好意で学校教育を受けます。遭難から約10年後の嘉永4(1852)年に帰国し、長崎で尋問を受けたのち、土佐藩の召しかかえとなり、ペリー来航に際し、幕府で外交書簡の翻訳等に従事します。

 万延元(1860)年には、幕府遣米使節に随行して再度渡米します。明治維新後は開成学校(開成所の後身)の教授となります。明治3(1870)年、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されます。明治31(1898)年、71歳で死去。

リーダーとして責任感からロシア語を修得した大黒屋光太夫

 万次郎から約半世紀前の1783年、ロシア領アリューシャン列島に、大黒屋光太夫だいこくやこうだゆうら17人を乗せた船が漂着します。このとき、光太夫は31歳です。

 それから苦節10年もの間に、12人は死亡、2人は残留、光太夫を含めた3人だけが北海道の根室に上陸を果たしますが、1人はその地で亡くなり、結局、光太夫ら2人だけが江戸に送られます。

 その数奇すうきな生涯は、井上靖の『おろしや国酔夢譚こくすいむたん』など小説に描かれ、映画化もされています。それらの下敷きとなっているのが、帰国後、光太夫自身が幕府の取り調べに応じてかの地での見聞を語った『北槎聞略ほくさぶんりゃく』です。



 『北槎聞略』によると、光太夫は、アリューシャンから長駆ちょうく、シベリアを経て首都ペテルブルクに至り、女帝エカテリーナ2世 (大帝)に、直談判で帰国を願い出て、許されます。
女帝に謁見えっけんしたとき、光太夫は40歳です。

 万次郎と比較した場合、決して若いとは言えない光太夫ですが、女帝相手に直接、自らの物語をロシア語で語って聞かせたというのですから驚きです。

 光太夫をこれほどの語学力の修得に駆り立てた動機は何だったのでしょう。
光太夫自身の資質や、漂流民仲間のリーダーとしての立場、あるいはそれ以前に、生きていくのに不可欠という切羽詰まった事情はもちろんあったと思います。

 でも、一番の理由は、どうしても日本に帰りたいという光太夫の強い望郷の念だったのではないかと推測します。

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)とは?


大黒屋光太夫と磯吉

 大黒屋光太夫は、伊勢国(現在の三重県)の商人・船頭です。(1751~1828)
天明2(1782)年、光太夫らを乗せた神昌丸は江戸にむかう途中遭難し、7ヶ月余りを漂流した後、アリューシャン列島に漂着します。

 それから4年後、カムチャツカ半島に渡り、のちに帰国を願ってシベリアを西行し、1791年に、首都ペテルブルグに至ります。そして、女帝エカテリーナ2世 (大帝)に謁見し、帰国を願い出て、許されます。

 寛政4 (1792) 年、念願が叶い、遣日使節 A.ラクスマンに連れられて帰国します。帰国後は幕府により江戸に監禁同様に留めおかれますが、見聞した知識を有志の人々に伝えます。その記録に『北槎聞略』があります。

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あとがき【好奇心の芽生えを育む!】

 鎖国時代に海を渡ったのは、ジョン万次郎や大黒屋光太夫だけではありません。
他にも、司馬遼太郎が小説『菜の花の沖』で描いた、高田屋嘉兵衛たかだやかへいも有名です。

 どの人物にも共通して言えることは、好奇心の旺盛な人物だったということです。
新たに言語を学ぶにしろ、それがまた違う分野でも、好奇心を芽生えさせることが、“ 学び ” への意欲を高める第一歩なのではないでしょうか。

 わたしは、とりあえず、外国の友達を作るところから始めようと思います。

 脳と心、刺激と訓練で成長を!!【中高年からの学び】

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