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振りかざすなら『常識』ではなく『良識』を!

こころを豊かにするメソッド
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はじめに【常識について考える!】

 ドイツ生まれの理論物理学者、アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)は『常識とは、18歳までに積み重なった、偏見の累積(るいせき)でしかない』という言葉を残しています。

 最近、新聞、テレビ、週刊誌、またはSNS等を覗くたびに、違和感と言うべきか、正体不明の、どこか心に引っ掛かるものがありました。

 一般的に世間から知識人とか有識者と呼ばれる人たちが、『常識』なるものを振りかざして、我こそは正義と、意見の違う相手をまるで親の敵かのように攻撃し、論破に明け暮れているからです。

 ですから、このような人たちが振りかざす『常識』に遭遇するたびに、冒頭に述べたアインシュタインの言葉が蘇ってしまいます。
そんな理由で、『常識』というものを今一度考えてみたくなりました。

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振りかざすなら『常識』ではなく『良識』を!

常識とは?

 ある辞書によると、常識とは「普通一般人が持ち、また持っているべき標準知力(知識、判断力、分別等)」と定義されています。分かりやすく言えば、社会通念(社会一般に行きわたっている知識・見解)を理解し、それに基づいて判断・分別ができる能力ということです。

社会通念について

 社会通念は、その社会自体から生まれ、維持されてきたものであり、換言すると、それはその社会固有の文化の主要な部分を構成しているものであると言えます。社会通念の理解に当たっては留意するべきもう一つの観点があります。

 社会通念がその社会において維持されてきたのは、それが大方の社会成員に支持されてきたからです。その際、人々の間には自分たちの社会を維持したいという意識、いわば公的意識がはたらいています。社会通念は公的意識に支えられているものと言えるでしょう。

『常識・社会通念』は時代で変化をする

 第二次大戦後、悲惨な破滅をもたらした軍国主義、それを支えた国家主義が批判され、排除されてきました。それは当然のことのようでしたが、勢いの赴くままに、伝統的文化と公的意識を軽んじる風潮が優勢となったように思われます。

 伝統文化と公的意識を軽視する傾向は、経済の高度成長から経済大国化の過程で現れた自己利益至上主義とでもいうべき風潮によってさらに強められたようです。そしてグローバリゼーションの波がこの傾向を助長していましたが、それももはや過去のことです。

 現在も刻々と『常識・社会通念』は変化し続けているのです。

『常識・社会通念』は宗教や思想でも変わる

 人間が生きていくうえでの意味づけとして、宗教や思想の役割は大きいでしょう。
宗教を信じる者は宗教的教義によって善悪の判断基準が権威づけられ、また、思想を持つ者は持つ者で、思想的教養が『常識・社会通念』の基準となります。

 自分のよりどころを持てず、自分に誇りを持てない人間に、成長は期待できないでしょう。同様に、自己の社会・文化に誇りを持たず、それを維持しようとする意欲も薄い社会に、明るい将来は期待できないような気がします。

 青少年たちによるいじめの報道に接するたびに、「弱い者いじめはひきょう者のやる恥ずかしい行いだ」と子供時代に繰り返し教えられたことを思い出します。



 有力な政治家や官僚、経済人らの出処進退に関する非難の声を聞くたびに、「自分のやったことの責任は自分でとれ」という言葉が、大人の仲間入りを前にした青年たちに強調されていたことも記憶にあります。

 これらの教えも、武士の世からの神儒仏思想によるもので、われわれ日本人の大切な『常識・社会通念』であったはずです。

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あとがき【常識の上位概念は良識!】

 『常識・社会通念』とは、人間の倫理観、価値観に基づいて設定されている認識のことで、一つの社会の常識と他の社会の常識とは違い、それぞれの社会にそれぞれの常識があることを認めなければなりません。それは人間個人であっても同じです。

 哲学者の三木清は、「常識の上位概念として良識がある」と、述べています。

 「常識人が常識を無謬(むびゅう)のものとして受容し、常識を盾にして非常識を断罪するのに対し、常識に疑問を持てる知恵が良識なのである」

 知識人とか有識者と呼ばれる人たちも『常識』ではなく『良識』を振りかざして、より寛容なこころで意見の違う人間に接して貰いたいものですね。

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