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他人を決して羨ましがらない!【『嫉妬心』と決別する方法】

こころを豊かにするメソッド
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はじめに【わたし自身の『嫉妬心』について】

 誰しもが一度は、他人に対して羨望の眼差しを向けたことがあると思います。
わたし自身の例をあげますと、

 ・ あいつは高学歴だ。おれは高卒だ。羨ましい。
 ・ あいつは上司の取り入り方が上手い。おれはその点で不器用だ。羨ましい。
 ・ あいつは容姿が良くて女にモテる。おれはダメだ。羨ましい。
 ・ あいつには地位も名誉も金もある。おれには何もない。羨ましい。
 ・ あいつは得な性格だ。おれは損な性格だ。羨ましい。等々。

 今思いつくだけでも、こんなにあります。こんな調子で他人を眺めていたら、短い人生も、人をうらやむだけで、過ぎ去ってしまいそうな気がします。

 さて、他人をうらやむといった心情が膨らんでいったらどうなるでしょうか。それは、ねたみ、つまりは嫉妬心に変わります。

 そう言えば、かつて誰かに言われたことがありました。―――「男の嫉妬心ほど見苦しいものはない。」と・・・。
 何れにしても、今回は、『妬み・嫉み』の感情について考えていこうと思います。

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他人を決して羨ましがらない!【『嫉妬心』と決別する方法】

「うらやむ」という心理について!

 人を「うらやむ」心理と、幼児の “ ないものねだり ” は本質的には同じような気がします。自分は持っていなくて、他人が持っているもの。その全てが欲しくなります。あるいは、例え同じものを持っていたとしても、他人の持っているもののほうが、良く見えたり、大きく見えたりするものです。

 つまり、「うらやむ」心理とは、精神的に大人になり切れてない人間が陥る心理状態と言えます。これが精神的に大人になっているのなら、他人の優れた点を見たとき、自然と尊敬や祝福をすることでしょう。

 このような精神的大人の人間は、仮に他人が自分より優れていたとしても、または、自分よりも多くのものを持っていたとしても、それを認め、「受け入れる」ことができます。ですから「うらやむ」心理から「ねたむ」心理へと、進行していくことはありません。

 逆に、大人になり切れてない人間は、これらを心情的に受け入れることができません。「うらやむ」どころか、それを認めず「許せない」という気持ちになります。この気持ちは既に「ねたむ」を通り越して「うらむ」です。こうしたマイナス心理は、言うまでもなく人生において不要の産物です。

劣等意識をプラスの方向へと転化する!

 以前に 劣等感、積もりに積もると被害妄想になる! で、劣等感について書きました。
他人を「うらやむ」ことをよくするような人間は、劣等感も強いと言えます。しかしながら劣等感とは必ずしも悪いだけの感情ではないようです。本来、劣等感という感情は向上心と結びついているからです。

 実際、劣等感を踏み台に、いや、跳躍台にして飛躍を遂げた人間も数多く存在します。例として歴史上の人物を一人あげるとしたら、豊臣秀吉が頭に浮かびます。「猿面(さるめん)冠者(かんじゃ)」という言葉が残るように、容姿から猿と呼ばれていたことは有名です。


 豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵)

 ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書き残しています。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語っています。

 出自に関しても、尾張中村郷の下層民の子で、義父との折り合いが悪く、幼き頃に家を飛び出したと伝えられています。このような劣等意識をプラス方向に転化できたのは、勿論、秀吉本人の努力によるものが大きいと言えます。が、そしてもうひとつ、秀吉が陽性で外交型な性格の持ち主だったということも忘れてはいけません。

 仮に秀吉が、陰性で内向型な性格の持ち主なら、どうだったでしょうか。劣等感が心の中で塵のように積もっていき、自分で処理をしきれず、持て余していたでしょう。結果として他人を「うらやむ」心情も増幅していき、「もうダメだ。諦めよう」なんて、マイナス方向に向かっていったことでしょう。当然、歴史に名を残すこともありませんでした。

 劣等意識をプラスの方向に転化させることは、決して簡単な作業ではありません。けれども普段から、少しでも陽気(陽性)さを心がけているだけでも、未来は変わってゆくような気がします。

猿面冠者(さるめんかんじゃ)

 〘名〙 (「冠者」は若者の意) 猿の顔に似た若者。特に、豊臣秀吉の若いころのあだ名。
 ※日本読本(1887)〈新保磐次〉六「秀吉の面猿に似て、その心甚活発、鋭敏なりければ、猿面冠者と云ふ異名を得」


出典:精選版 日本国語大辞典

自分の弱さを事実として認めよう!

 外交型の人間が陽気に、調子よく、たくましくやっているのを見たら、内向型の人間はそれを「うらやましい」と思い、「ああいうふうになりたい」と、思わず空想してしまいます。そして、真逆の自分を顧みて、劣等感を抱きます。

 これは、精神的に強い(と見える)人間への憧れです。精神部分だけではなく、強さへの憧れは、人間が生まれつき持っている、生存本能の一部分です。けれども、誰しもが努力によって、簡単に手に入れられるわけでもないでしょう。それは、先天性的な要因も大きいからです。

 だからと言って悲観する必要はありません。自分の弱さを自覚して、それを客観視して受け入れる。事実は事実として大らかに認めることで道は開かれます。お笑い芸人と呼ばれる人たちが、その典型と言えるでしょう。彼らは自分の弱さや欠点、劣等感を武器にしています。

 
  筒井順慶

 安土桃山時代、大和郡山の城主だった筒井順慶(じゅんけい)の家来に、板倉権内(ごんない)という武士がいました。非常な臆病者で、その臆病さは近隣諸国にまで評判となり “ 筒井家の権内 ” という言葉が、臆病者の代名詞として使われるほどでした。

 権内も無論、この不名誉をそそごうと努めましたが、どうしようもありませんでした。ついに筒井家の禄を辞して浪人になってしまいます。そんな権内ですが、再度奉公をしようと、伊勢松坂の領主、蒲生(がもう)(うじ)(さと)のもとを訪れます。その際言った言葉がこれでした。

 「お聞き及びかと存じまするが、拙者はかの “ 臆病者の板倉権内 ” でございます。臆病者でもお使いくださるならば、ご奉公いたしたいと存じまして……」この口上に氏郷は「どういうわけでこの氏郷に仕官しようとするのか」と、訊ねます。

 権内は答えます。「臆病者をでもお抱えくださる度量のお方は、あなたのほかにはいないと思いましたので……」氏郷は、すぐに家臣に取り立てました。後に、この権内、戦で抜群の働きをして、氏郷は喜んで「わが眼鏡たがわず」と、ただちに二千石を与えたといいます。

 権内は自分の臆病さに苦しみました。けれども「臆病者の権内」と、自らを名乗るくらいですから、自分が臆病である事実を認め、これを現実として受け入れています。もはやこれは劣等感とは言いません。

 劣等感とは、自分が他人よりも劣っている事実を受け入れようとしない心情のことです。心のどこかで反発しているのです。ですから、人前でその事実を公言するなど、自尊心が許しません。


     蒲生氏郷

 蒲生氏郷が板倉権内を家臣に取り立てたのは、自らを臆病者と名乗る勇気と、その正直さに「見どころのあるやつ」と、にらんだからではないでしょうか。とりあえずは、自分の弱さを事実として認めることから始めてみましょう。

自分の現実をありのままに受け入れる!

 『嫉妬心』とは、他人と自分とを比べることによって起こる感情です。実際問題、人間の長所や短所、才能のありかたはお互い様だと言えます。ある点では他人が自分よりも勝り、また、別の点では自分のほうが勝っているものです。人間誰しも、どこかに取り得があります。

 それなのにどういうわけか、あるひとつの点だけを注視してしまい、自分が他人よりも劣っていることに抵抗を感じます。ひいては、これを許せないことのように思い込んでしまいます。つまり、『嫉妬心』とは負けん気の裏返しであり、この感情が陽性に発動するのなら何の問題もありません。

 ところが、自己中心的に陰にこもって発動してしまうことのほうが多いようです。こういった場合は、どうしても自己観察に(ふけ)ってしまい、自分の欠点、いやな部分ばかりをほじくり出してしまいます。そして益々「自分はダメだ」と、自虐的な思考に陥っていきます。

 それならいっそのこと、「自分はこんな人間なのだ」と自分自身を一度肯定し、現実をありのままに受け入れて、自愛的な思考に持っていくほうが楽です。自分を受け入れることで、視界が開けることもあります。


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あとがき【他人の評価に支配されない生き方を!】

 『嫉妬心』の強い人間は一般的に、ひとから良く思われたい、褒めてもらいたい、認めてもらいたいと、常に自分に対する他人の評価を気にする、いわゆる依存心の強い人間だと言えます。他人の評価に依存して生きているからこそ、他と自分を比べてしまうのです。

 極論を言ってしまえば元も子もありませんが、自他の優劣なんてことは、要するに「どうでもいいこと」なのです。高い山に登って星空を眺めていたら人間の優劣なんてちっぽけなことはどうでもよくなります。広い海原に出て、荒波や魚と格闘していたら、人間の弱さを実感してしまいます。

 そんなちっぽけで、弱い人間同士が優劣を競い、互いに嫉妬し合っているのです。未来のことは誰にも分かりません。明日の自分が生きていることさえも・・・。そう考えたら、他人をうらやむ時間ほど、無駄なことはありません。

 いま、わたしたちが傾けている情熱に、時間を費やしたほうが建設的、かつ健康的と言えるでしょう。そしてやがて『嫉妬心』と決別できたとき、やっと本来の自分と巡り合えるものと、わたしは考えます。

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