はじめに【「親ガチャ」という利権は手放さない!】
少し前から「親ガチャ」というキーワードが目立つようになってきました。
ご存知の通りで、いわゆる “ 生まれた環境(親)によって人生は決まる ” といった意味の言葉ですが、報じているマスメディアがどこか他人事なのは気のせいでしょうか。
それもその筈です。当たりのガチャを引いた人たちが報道しているのですから。これは法を作る政治家や官僚にも言えます。勿論、中には苦労の末にその立場を掴んだ人たちもいるでしょうが、それもごく一部のような気がします。
「親ガチャ」から生じた経済格差はそのまま教育格差に繋がります。そしてこの教育格差が職業格差になり、経済格差を生み出します。まるで勝者のスパイラルとも言えるでしょう。ですから勝者は勝者で、このスパイラルから振り落とされないよう必死になります。
決して敗者にだけはならないように・・・。
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』あらすじと解説【心の悲鳴に耳を!】
ヘルマン・ヘッセとは?
ヘルマン・カール・ヘッセ(Hermann Karl Hesse)は、20世紀前半のドイツ文学を代表する詩人・作家です。(1877年7月2日-1962年8月9日)
ヘルマン・ヘッセは1877年、ドイツ南部ハーデンヴュルテンベルク州カルフに生まれます。難関とされるヴュルテンベルク州立学校の試験に合格し、14歳のときにマウルブロンの神学校に入学します。けれども半年で退学してしまいます。
その後、様々な職に就きながら執筆活動をしていきます。1899年に処女詩集『ロマン的な歌』を自費出版し、1904年には小説家としてデビューします。1912年からはスイスに移り住みますが、公然と戦争批判を行い新聞や雑誌からボイコットを受けます。
戦後、重度の精神的な病に苦しみながら、作品『デミアン』を執筆します。以降の作品には、現代文明への強烈な批判と洞察、精神的な問題点などが多く描かれていて、この作品群がヘッセを、ドイツ文学を代表する作家に押し上げます。
1923年、スイス国籍を取得します。1946年、ヘッセは、ノーベル文学賞とゲーテ賞を受賞します。そして1962年、43年間を過ごしたモンタニョーラの自宅で死去します。(没年齢85歳)他に代表作として『少年の日の思い出』『春の嵐』などがあります。
ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』あらすじと解説【劣等感!】
『車輪の下』(しゃりんのした)とは?
『車輪の下』(独語:UNTERM RAD)は、1905年に発表されたヘルマン・ヘッセの長編小説で、ヘッセが28歳のとき執筆した作品です。
物語の背景として、作者・ヘッセは神学校在学時、不眠症とノイローゼを患い、学校から逃走した経験があります。その後連れ戻されますが自殺しようとします。結果、退学することになりますが、つまりヘッセ自身の神学校体験が物語の基となっています。
タイトル『車輪の下』について
『車輪の下』というタイトルについてですが、物語の第四章で、神学校の校長がハンスに「決して弱気になってはいけない。さもないと車にひかれてしまうよ。」という箇所があります。
この「車にひかれる」を原文から直訳すると「車輪の下に入る」となることから、タイトルの由来となっています。
『車輪の下』あらすじ(ネタバレ注意!)
ハンス・ギーベンラート少年は、生まれつき聡明な頭脳と気品を持ち合わせていました。ですから、男手ひとつで育てている父親にとって、そんなハンスは自慢の息子でした。いや、父親だけじゃなく、教師達や牧師、周囲の人間全てがハンスに期待を寄せていたのです。
ハンスの暮らす小さな町では、貧しくても優秀な子供は、州の試験を受けて、エリートの養成学校ともいえる神学校に進むのが一般的でした。ハンスは元々遊び好きで活発な少年です。けれども一切合切の遊びを止めて、神学校に進むため、猛勉強をしたのです。
そんなハンスを心配する大人がいました。靴屋のフライクおじさんです。フライクおじさんは、「もしも試験に落ちても決して恥ではない。」と、ハンスに伝えます。ところが自尊心の高い少年の耳には、もはや届きませんでした。
そしてついに試験の日がやってきます。ハンスは、不安と頭痛に悩まされながらも受験に挑みます。しかし、ギリシャ語の試験で失敗をしてしまいます。ハンスは(試験に落ちた)と思い悩み、結果発表の日まで落ち着かない毎日を送りました。
ところが意外にも、二番の成績で合格をしたという知らせがハンスに届けられます。ハンスは一週間早く休暇をもらい、それまで我慢を強いられていた釣りや水浴びを楽しみます。と、同時に、神学校での生活に備えて、前にも増して猛勉強に励むのでした。
そんなハンスを父親は誇りをもって眺めていましたが、その一方で、靴屋のフライクおじさんはハンスを心配し、彼のために祈っていたのです。
マウルブロンの神学校に入学したハンスは、寄宿舎で生活をすることになります。ハンスはそこで、ヘルマン・ハイルナーという少年と仲良くなります。ハイルナーは自由奔放で、独自の世界観を持つ芸術肌の少年でした。
ハンスは、勉強時間が削られていくことへの不安を感じながらも、ハイルナーの自分にはない魅力に惹かれ、その友情を強いものにしていきました。そんなある日、ハイルナーが暴力事件をおかし、罰として監禁を言い渡されてしまいます。
この事件以来、ハイルナーは孤立するようになっていきます。問題児との交際は、教師たちの心証を悪くするからです。ハンスもまた皆と同じようにハイルナーと距離をとるようになります。けれども同時に、友情を取らなかったことを後悔し、苦しむのでした。
そんなとき、ハイルナーは病気になります。ハイルナーに対する罪の意識に悩まされていたハンスは、病室を訪れ、「もう一度親友になってくれ。」と、頼みます。ハイルナーもそれを承諾し、二人は再び親友関係に戻ることができました。
友情にのめり込んでいく一方、ハンスの成績は落ちていきます。そんなハンスに校長先生は「ハイルナーとの友情を慎むように。」と言います。けれどもハンスは、きっぱりと「僕は卑怯者にはなりたくありません。」と、拒絶したのでした。
ある日の授業中、ハンスの身に奇妙なことが起こります。それは教師に名前を呼ばれても反応ができないというものでした。ハンスは医者から神経症と診断され、毎日、食後の一時間は散歩をするようにと命じられます。そしてハイルナーの散歩への同行を禁じたのでした。
けれども逆に、二人の友情は固く結ばれていきます。ある夜、ハイルナーは故郷に恋人がいて、その娘とキスをしたことをハンスに教えました。ハンスはハイルナーを、まるで英雄でも見るかのように見つめ、そしてまだ知らぬキスのことを考え続けていたのです。
そんなとき校長は、ハイルナーが禁制をおかして、ハンスの散歩に同行していることを聞き知ります。ハイルナーは再び監禁され、散歩の同行を厳禁されました。そして次の日、ハイルナーは姿を消します。学校への抗議のために脱走したのでした。
見つかり、連れ戻されたハイルナーは放校処分を受けます。ハイルナーはそれっきりハンスに手紙をよこすこともなく消息を絶ったのでした。親友を失ったハンスは、ただ無為な時間を過ごします。
当然のように成績は下がっていき、教師たちからは見放されるばかりでした。そんなある日、ハンスは、黒板の前で目眩を感じ、膝をついたなり二度と立てなくなってしまいます。医者はハンスに休養を命じ、実家へと帰しました。
こうして実家に戻されたハンスでしたが、容態は一向に良くなりません。むしろ後退している様子でした。彼にとって森の中で横になっているときだけが幸せでした。そしてハンスは、森の中を―――死に場所、と決めます。
死を決めたハンスは、失われた幼少時代を夢想して過ごします。思い出の場所に足を運んだりもしました。けれどもその度に、子供の頃には戻れないと思い知らされるだけだったのです。
そんなとき、ハンスは、靴屋のフライクおじさんから、リンゴの果汁絞りに招かれました。そこでハンスは、フライクおじさんから姪のエンマを紹介されます。エンマは十八、九歳で、いかにも快活そうな娘でした。―――ハンスはエンマに恋をします。
その日の夕食時、ハンスは父親から「機械工になりたいか。それとも役場の見習いになりたいか。」と、突然聞かれました。けれどもこのとき、ハンスの心の中は、エンマで占められていたのです。ハンスは、フライクおじさんの家に向かいます。
フライクおじさんの家に着いても、ハンスは中に入る勇気が出ませんでした。家の裏手から窓を覗き込むだけです。すると、そんなハンスを見つけたエンマは外へと出てきます。そしてハンスは、初めてのキスを経験します。エンマは「明日の晩も来てね。」と、言いました。
翌日、ハンスは、機械工をしている幼馴染のアウグストに会いに行き、機械工になる決意を固めます。そして夜になるとエンマを訪ねて、再びキスをしました。このときハンスは、心臓の鼓動が止まるような感覚を覚え、逃げるようにして帰ってしまいます。
ところが数日後、エンマは、ハンスに別れを告げないまま実家に帰って行きました。つまりエンマはハンスのことを本気で相手にしていなかったのです。こうして彼は初めての恋で、わずかな甘みと多くの苦みを味わったのでした。
そんな中、ハンスは機械工の見習いになります。そこで彼は生まれて初めて、労働の尊さというものを知ることができました。と同時に、肉体的な苦痛と疲労を覚えます。通りを歩いていると「州試験にとおった錠前屋!」と、嘲笑されました。
機械工になって初めての休日、ハンスはアウグストから飲みに誘われます。その席でハンスは大いに酒を飲み、愉快な気持ちになっていきます。けれども慣れていないお酒ですから、酩酊状態に陥ります。ハンスは不愉快な気分で、一人先に帰りました。
帰り道、ハンスは林檎の木の下で寝転がります。すると急に、羞恥心やら自責の念が彼の心に襲いかかってきました。ハンスは大きなうめき声を上げて、すすり泣きます。一時間後、彼は身をおこし、あやふやな足取りで山を下りて行きました。
夕食に帰ってこないハンスに父親は激怒します。けれども彼は二度と帰ってくることはありませんでした。
同じ頃、―――ハンスは河の中で冷たくなっていたのですから・・・。
葬儀のとき、フライクおじさんが父親に話しかけます。
「あなたやわたし、ハンスの周りにいたみんなに手落ちがあったのでしょうね。そうは思いませんか。」
『車輪の下』【解説と個人的な解釈】
物語の主人公・ハンスは、いわゆる神童でした。だからと言って、頭脳はともかく心の部分ではまだ成長途上の少年です。そんな少年が周りから特別な目で見られ、さらに過度な期待をかけられるわけですから、彼には多大な重圧がのしかかっていました。
それは物語の最初のほうで、ハンスが「頭痛」に悩まされているところに表れています。つまり危険信号を発していたのです。けれども、自尊心と功名心に憑りつかれていた少年に気がつく余地など残されていませんでした。
周りの大人たちもまた、自己の名誉心のためにハンスを犠牲にしています。大人たちは彼に知識を与える以外何もしませんでした。そんな中、ただ一人の例外がフライクおじさんです。
ところが、他の大人たちから賞賛を得たいと思っていた彼は、本気で心配している大人の助言を聞き入れません。ハンスの不幸はここから始まります。
そして神学校へと進んだハンスでしたが、そこでの大人たちも同様でした。問題児ハイルナーと友人関係にあるだけで、教師たちは彼を見放していきます。そんな彼にとってたったひとつの心の支えがハイルナーだったのです。
しかしハイルナーは去り、音信も途絶えてしまいます。もしも真の友人関係にあったのなら何らかの形で連絡をよこす筈です。つまりハイルナーにとってハンスはあくまで神学校という隔離された世界だけの友人であり、広い世界を共有できる友人では無かったようです。
結果的に、大人だけではなく、同年代の友人にまで見放されることになったハンスは、深い喪失感に襲われます。そんなハンスを教師たちは軽蔑し、酷い叱責を浴びせます。つまりハンスを窮地へと追い込んでいったのは、フライクおじさんの言うとおりで周りの人たちだったのです。
物語の終盤、ハンスはひとときの恋愛を経験し、労働者の暮らしを体験します。ハンスに希望の光が見えたかと思いきや一転、彼を待ち受けていたのは「死」でした。
作者はハンスの水死について原因を明確にしていません。事故死、または自死、いずれにしても一人の少年の不幸は周りの環境がつくるのだということを作者は訴えているような気がします。
あとがき【『車輪の下』の感想を交えて】
冒頭で述べた「親ガチャ」問題ですが、違う角度から捉えると、“ 労働に対する対価基準のいびつさ ” がそもそもの問題のような気がします。
「何故人間にとって一番重要な食糧を提供する人たちより、それをただ右から左に動かしている人のほうが大きな対価を得ることができるのか?」
つまり、頭脳を使う労働も、肉体を酷使する労働も、労働という意味では同じ筈なのにです。ハッキリと言いますが、あなたに職業差別意識はありませんか?
昨今、何かと差別の問題が叫ばれていますが、職業差別意識については語られていません。この差別意識を無くし、例え大学を出ていなくても、それなりに労働への対価が得られるのなら「親ガチャ」問題は直ぐに解決できるでしょう。
ーーー人間の価値は頭脳だけじゃ測れないのですから。
さて、『車輪の下』の主人公・ハンスにしても、たまたま頭脳が明晰だっただけで(自分は特別な人間)なのだと思い込んでしまいます。そして他の同級生や町で働く労働者たちを見下していました。すなわち差別意識です。
これがもしも、どんな職業でも尊敬できる社会なら、例え退学したとしても最悪の事態は免れていたことでしょう。そして、フライクおじさんのように「心の悲鳴」に耳をすましてあげられる大人が多くいたら、この世の多くの不幸は無くせるでしょう。
理想論と言われるかも知れませんが・・・。
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