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梶井基次郎『冬の日』あらすじと解説【すべてのものは仮象!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【松尾芭蕉と梶井基次郎】

 梶井基次郎が松尾芭蕉の俳句をこよなく愛していたことはよく知られています。梶井にとって座右の書と言えば芭蕉の紀行文でした。

 梶井は昭和元(1926)年に伊豆の湯ヶ島温泉で療養しますが、それ以前、同じ下宿の隣部屋に同居していた三好達治と共に、松尾芭蕉を研究していたと言われています。この時期、梶井は、「凩やいづこガラスの割るゝ音」といった俳句も詠んでいます。

 そんな梶井が、松尾芭蕉の『芭蕉七部集』の一集『冬の日』からタイトルを取ったとされる短編小説『冬の日』を今回ご紹介致します。

松尾芭蕉(まつおばしょう)とは?

  松尾芭蕉(左)と曾良

 松尾芭蕉(名は宗房(むねふさ)。芭蕉は俳号)は、江戸時代前期の俳人です。(1644~1694)
伊賀(三重県)上野の藤堂藩士として生まれますが、武士身分を捨てて町人の世界に入ります。のちに江戸へと下り、職業的な俳諧師(はいかいし)の道を歩むことになります。

 深川の地に芭蕉庵をむすび、蕉風(しょうふう)俳諧(はいかい)を確立します。以後は没年まで各地を行脚し、『おいの小文』『野ざらし紀行』『奥の細道』など多くの紀行文や名句を残します。元禄7(1694)年、西国行脚を志しますが、その途次、51歳のとき大坂で病没します。

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梶井基次郎『冬の日』あらすじと解説【すべてのものは仮象!】

梶井基次郎(かじいもとじろう)とは?

 梶井基次郎は大正末期から昭和初期にかけて活躍した日本の小説家です。(1901~1932)
大阪市に生まれ、第三高等学校を経て東京帝国大学英文科に入学しますが、結核を病んで中退してしまいます。

 在学中の大正14(1925)年、同人雑誌『青空』を創刊し、この年に檸檬(れもん)『城のある町にて』泥濘(でいねい)『路上』『(とち)の花』など、後に梶井の代表作とされる作品を次々と発表しましたが、文壇からは黙殺されました。

 昭和元(1926)年には、病状が悪化したため伊豆の湯ヶ島温泉で療養します。この頃、川端康成の『伊豆の踊子』の刊行の校正を手伝います。

   川端康成

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 昭和3(1928)年、散文詩『桜の樹の下には』を発表し、ようやく文壇の注目を集めるようになりましたが、病は次第に重くなっていきます。

 療養に努めながらも執筆を続けていた梶井でしたが、昭和7(1932)年、『のんきな患者』を発表後の3月24日、31歳という若さで永眠します。その透徹した作風は死後ますます高く評価され、昭和9(1934)年には『梶井基次郎全集』が出版されました。

   梶井基次郎

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短編小説『冬の日』(ふゆのひ)について

 『冬の日』は昭和2(1927)年2月1日発行の同人誌『青空』2月号に前篇、4月1日発行の4月号に後篇が掲載されます。なお後篇の末尾には「未完」と記されています。ちなみにタイトルは松尾芭蕉の『芭蕉七部集』の一集『冬の日』から取られています。

『冬の日』あらすじ(ネタバレ注意!)


 冬至(とうじ)間もない季節、(たかし)の下宿部屋の窓からは、木々の葉が、一日ごとに()がれてゆく(さま)が見えました。(しも)はしだいに鋭くなっていきます。冬になって堯の肺の病(結核)は酷くなり、(たん)の色は黄緑色からにぶい血の色へと変わりました。

 けれども彼は、血の痰を見ても今や何の刺激もなくなっていたのです。堯はこの頃、生きる熱意をまるで感じなくなっていました。彼の魂は常に下界へ逃れようと焦っていました。昼は外の風景を見つめ、夜は外の物音に耳を澄まします。

 十一月の(もろ)い陽ざしは、堯の心に、墨汁のような悔恨(かいこん)やいらだたしさを抱かせました。それから彼は、夕陽がつくる影が消えるまで空虚な心でそれを眺め、見終えると絶望に似た感情で窓を閉ざすのでした。

※悔恨(かいこん) 後悔し残念に思うこと。くやむこと。


 堯のもとへ郷里の母親から手紙が届きます。その手紙は、「お前のことが気がかりで、夜中に驚いたように眼が()める。」といった内容でした。堯はそれを読んで、(自分の心臓に打った不吉な拍動(はくどう)が母を目覚ましたのではないか?)と、凄然(せいぜん)とします。

※凄然(せいぜん) 非常にもの寂しい感じがするさま。

 堯の弟は脊椎(せきつい)カリエス、妹は腰椎(ようつい)カリエスで死にました。堯は思います。(どうして医者は「今の一年は後の十年だ」なんて言うのだろう。どうしてあと何年()てば死ぬとは言わないのだろう………)

※脊椎(せきつい)・腰椎(ようつい)カリエス 結核菌が脊椎へ感染した病気が脊椎カリエス、腰椎へ感染した病気が腰椎カリエス。

 五、六年前の堯は、自分の死がただ甘い悲しみとしか(とら)えていませんでした。けれども栄養を()るための美食に対する嗜好(しこう)安逸(あんいつ)怯懦(きょうだ)は、逆に彼から生きる意志を持ち去ります。真っ当な生活を取り戻そうとするものの、彼の前には虚無的な風景が現れました。

※嗜好(しこう) たしなむこと。このみ。
※安逸(あんいつ) 何もせずにぶらぶら暮らすこと。
※怯懦(きょうだ) おくびょうで気の弱いこと。

 近代科学の使徒(しと)の一人が堯に告げます。「死者が辿った同じ徴候(ちょうこう)がお前にも現われ、白い石膏(せっこう)の床が黒い土に帰るまでの何年かのために用意されている」と。夜更けの床の中、堯は陰鬱(いんうつ)な心の底で呟きます。「おやすみなさい、お母さん」。

※陰鬱(いんうつ) 暗く沈んで晴れ晴れしないさま。うっとうしいさま。


 珍しく早起きした堯は郵便局へ行きました。そこでの用事を済ませた堯は、美しい陽だまりの中にしゃがみ込んで、遊んでいる子供たちを眺めます。堯はふと、(どこかで見たことのある情景(じょうけい)だ)と、不意に心が揺れます。

 それは学校の授業中、忘れ物を取りに家に戻る途中で目にした新鮮な午前の時刻のようでした。堯は思わず微笑みます。けれども午後になって日が傾くと、再び悲しみが訪れました。(希望を持てない者が、どうして追慕(ついぼ)(いつく)しむことができよう……)

 堯は再び郵便局に戻ると、「今朝出した葉書を中止して下さい。」と言います。その葉書は、冬のあいだ暖かい海岸で転地療養しようと思い、そこに住む友人に借家探しを依頼するといった内容のものでした。

 激しい疲労を感じながら帰った堯は、通りから自分の下宿部屋を眺めます。二階のあらわな木肌は寄辺(よるべ)のない旅情で染めました。(この他国の町は自分を拒んでいる……)それが現実であるかのような(あん)(しゅう)が、彼の心を(かげ)っていきます。

※寄辺無(よるべなし) たよりとするところがない。 たよる所がない。 身を寄せる所や人がない。
※暗愁(あんしゅう) 心を暗くする悲しい物思い。

 堯は自分の部屋の窓を眺めながら、(あの中には俺の一切の所持品が――その日の生活の感情までが内蔵されているかもしれない)と思います。けれども無感覚な屋根瓦や窓硝子(がらす)を見ているうちに、通行人のような心になっていくのでした。


 街路樹の落ち葉は木枯らしに吹きはらわれ、アスファルトも()て始めた頃、堯は、クリスマスや歳末の売り出しで華やかな銀座へと行きました。(何をしに自分は銀座へ来るのだろう……)疲労しか感じなくなると、堯はよくそう思います。

 そんなとき、いつか電車のなかで見たある少女の顔を思い浮かべました。その少女の美しい顔は、一目(ひとめ)で病床から抜け出して来た結核患者だと彼は直感します。彼女は鼻をかむようにして何かを拭きとっていました。銀座では、自分の痰を吐くのにも困ります。

 (何をしに自分は来たのだ……)堯は何度もそのことを自問しました。彼は口実のように憤怒(ふんぬ)のような気持で高価なフランス製の香水を買い、街角のレストランで夜半まで過ごします。けれども結局彼は家へ帰らなければなりませんでした。

※憤怒(ふんぬ・ふんど) つかみかからんばかりの恐ろしい形相(ぎょうそう)で、激しく怒ること。

 (何をしに自分は来たのだ……)それは彼の中に残る古い生活の感興(かんきょう)に過ぎませんでした。(やがて自分は来なくなるだろう……)堯は重い疲労とともにそれを実感します。

※感興(かんきょう) 物に感じて興がわくこと。その面白み。

 下宿での夜は死のような空気の中で停止していました。固い寝床を離れると傾いた冬の日が窓の外を(げん)(とう)のように写し出しています。その不思議な陽射しを見ているうちに、すべてのものが仮象(かしょう)にすぎないことや、だから精神的に美しく見えることが(あら)わに(わか)ってくるのでした。

※仮象(かしょう) かりの姿。かりのかたち。主観的にだけあって、客観的実在性のないもの。


 冬至が過ぎると、堯は、冬の外套(がいとう)を出すために以前住んでいた町の質屋へ行きます。けれども外套はすでに流れていました。彼は崩壊していきそうな心に堪え、重い疲労を引きずりながら帰ります。その道すがら、出かけに自分の吐いた血痰(けったん)を見つけました。

 夕方の発熱で、堯は外出姿のまま部屋に座り込みます。すると突然、悲しみが襲ってきました。次から次へ愛するものを失っていった母のとぼけたような表情を思い浮かべると、堯は静かに泣き始めたのでした。

 夕餉(ゆうげ)の頃には、彼の心は冷静になっていました。そこへ友人の折田(おりた)が訪ねて来ます。折田は堯が普段使っている茶碗にも関わらず平気で茶を飲みます。そんな折田に堯は、「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。」と、つい嫌味を言ってしまいました。

 そして堯は、その日の出来事や、自分がどうしても冷静になれないことを折田に打ち明け、「冷静というものは無感動じゃなくて、俺にとっては感動でもあり苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静さで自分の肉体や生活が滅びてゆくのを見ていくことだ。」と語ったのでした。


 母から手紙が届きます。「帰らないと言うから春着を送りました。」といった内容でした。堯は近頃散歩に出ると母の幻覚に出会います。「母だ!」と思ってもそれが見知らぬ顔だったりしました。街を歩く堯は、呼吸が切迫してくる自分に気がつきます。

 彼は立ち停まると激しく肩で息をしました。けれども何かに駆られながらまた歩き出します。堯が見たかったのは遠い地平へ落ちて行く太陽の姿でした。堯の心は、冬の日に陰ってゆく窓の外の風景に耐えきれなくなっていたのです。

 (大きな落日が見たい……)彼は家を出て、遠い展望のきく場所を探しました。けれども日の光に満ちた空気は地上のどこにもありませんでした。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根から空へ手を伸ばしている男(自分)と、その男と街が(しち)(さい)のシャボン玉の中を昇天してゆく瞬間を想像します。

※七彩(しちさい) 七種の色。転じて、美しい色どり。

 青空では美しい浮雲が次から次へと燃えるように生成されていきました。満たされない堯の心の(おき)にもやがてその火は燃え移ります。(こんな美しいときが、なぜこんなに短いのだろう……)と、彼は儚さを実感しました。

※燠(おき) 赤くおこった炭火。(まき)などの燃えさし。

 ところが燃えた雲は次々と消え失せていきます。堯の足はもう進みませんでした。(あそこの雲へ行かない限り今日はもう日は見られない……)そう思った瞬間、激しい疲れが堯を襲います。見知らぬ町の町角で、堯の心が再び明るくなることはありませんでした。

青空文庫 『冬の日』 梶井基次郎
https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/417_19816.html

『冬の日』【創作の背景】

 梶井基次郎は、東京帝国大学在籍中の大正15(1924)年1月あたりから持病の結核が悪化し、9月頃からは血痰を吐くようになります。10月頃から基次郎の下宿の隣部屋に三好達治が同居し始めます。

 基次郎の病状がかなり酷いことに気づいた三好から転地療養をすすめられ、大晦日から伊豆の湯ヶ島温泉に滞在します。湯ヶ島の旅館で孤独な正月を迎えた基次郎は、5日から『冬の日』の執筆に取り組み始めます。

『冬の日』【解説と個人的な解釈】

 『冬の日』で描かれる風景は当時基次郎が下宿をしていた東京市麻布区飯倉片町(現・港区麻布台3丁目)の町の風景で、6章の断片的挿話(そうわ)から成っています。

 1章. 下宿の窓から冬へと近づく外の景色を眺め、自分の病と重ねて絶望する。
 2章.  母からの手紙をきっかけに、早くに亡くなった弟や妹のことを思い出し、自分も同じ運命をたどることを予感する。
 3章. 郵便局へ行き、一度は陽だまりの中で心が安らぐものの、日が傾くと再び悲しみに襲われ、自分の住む下宿にまで拒絶されているような気持ちになる。
 4章. 銀座へ行くが理由が分からず自問し、やがて来られなくなる〈死ぬ〉ことを実感する。
 5章. 質屋へ行き帰り道で自分の吐いた血痰を見つける。友人の折田に、肉体が滅びてゆくことに対し冷静にはなれないことを打ち明ける。
 6章.  地平へ落ちて行く太陽を求めてさまよい歩くがたどり着けず、次々と消え失せる雲を見て、明日の我が身を鑑み心が暗くなる

 以上のように『冬の日』は、作者・梶井基次郎自身がモデルで、結核の病状が悪化し、血痰が長く続き始めた時期の焦燥と絶望感を、真冬に移り変わる季節の風景と共に描いた心象的作品となっています。

 多少難解な文体とも言えますが、あえて難解にして、誰にも分かって貰えないやるせない思いや、容易には他者に心を開かないといった、ある意味作者の孤独さを表現していると個人的には解釈しています。

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あとがき【『冬の日』の感想を交えて】

 心がしだいに浮き足立ってゆく「春」という季節に比べ、「冬」という季節は人々の心を、暗く、重苦しくさせます。ましてや病の身で、先の人生も暗闇の人にとってはどのように映るでしょう。

 その立場にならないと分からないことですが、同時に、誰にでも起こり得ることです。『冬の日』の主人公・堯のように苦悩し、現実から逃れようとすると思います。迫りくる冬を避けて暖かい陽ざしを求めることでしょう。

 ともあれ、誰かが、「この世は仮の宿。」と言っていましたが、作中の「すべてのものが仮象にすぎない。」と相通ずるものがあるような気がします。

 誰もが梶井基次郎のように己の運命を冷静に見れるとは思いませんが、もしものときの心構えとして、読んで頂きたい作品です。

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