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司馬遼太郎『燃えよ剣』【土方歳三はなぜ剣のために生きたのか!】

一読三嘆、名著から学ぶ
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はじめに【日野に行ったときのこと】

 かなり前になりますが、東京都日野市で土方歳三の足跡をたどったことがあります。当時はネットなどもなく、ガイドブックと司馬遼太郎の本だけが頼りでした。これが先ずわたしの犯した間違いです。

 司馬遼太郎は『燃えよ剣』のあとがきに、「その生家を二度訪ねた。姿のいい村のなかに、大きな農家がある。」と書いていました。わたしのイメージはそれだったのです。しかし期待に胸を膨らませるわたしを待っていたのは新しい建物と看板でした。

 てっきり当時の生家が保存されていると思い込んでいたわたしも悪いのですが、司馬遼太郎の読者をわくわくさせる、なにか魔法のような文章も悪いのです。何度それに騙されてきたか分かりません。

 とにかく、『燃えよ剣』の映画が公開される前に、取り急ぎ再読した次第です。

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司馬遼太郎『燃えよ剣』【土方歳三はなぜ剣のために生きたのか!】

司馬遼太郎(しばりょうたろう)とは?

 司馬遼太郎(本名:福田定一)は、昭和期を代表する日本の小説家です。(1923-1996)
大正12(1923)年8月7日、大阪府大阪市南区難波(現:浪速区塩草)に生まれます。

 昭和17(1942)年4月に旧制大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部蒙古語学科)に入学しますが翌昭和18年、学徒動員で出征し、戦車隊の士官生活を経験します。

 戦地からの復員後、新日本新聞社を経て産経新聞社に勤務します。そのかたわら、寺内大吉(作家・浄土宗の僧侶)に勧められ小説を書くようになっていき、『(ふくろう)の城』で第42回直木賞を受賞します。

 昭和37(1962)年より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』を連載していき、歴史小説家としての活動を本格化させていきます。その後、『関ヶ原』『城塞』『坂の上の雲』『世に棲む日日』等のヒット作を次々と発表していきます。

 歴史を俯瞰(ふかん)して一つの物語と見る独自の歴史観は「司馬史観」と呼ばれ、『街道を行く』など歴史に関する随筆、紀行も多数あります。平成8(1996)年2月12日、腹部大動脈瘤破裂のため死去します。(没年齢:72歳)

    司馬遼太郎

魅力ある風土と文化を未来へと繋ぐ!【自然と気候編】

『燃えよ剣』とは?

 『週刊文春』誌上で、昭和37(1962)年11月から昭和39(1964)年3月にかけて連載された司馬遼太郎の歴史小説です。幕末の武装集団「新選組」副長・土方歳三の生涯が描かれていて、司馬の代表作の一つとして広く知られています。

新選組とは?

 新選組とは、幕末、京都守護職にあった会津藩主・松平容保の下、京都の治安維持や尊攘派志士の取り締まりを目的に結成された浪士隊のことです。文久元(1862)年、徳川幕府は清川八郎の建議を入れ、浪士を集めて浪士組(のち新徴組)を編制します。

 翌年に上洛させ、京都警備に当たらせますが、清川が尊攘派と結びつく動きを見せたため江戸へと戻らせます。このとき、京に残った芹沢鴨、近藤勇らが再組織したのが「新選組」でした。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦に敗れた後、甲州で新政府軍と戦って敗走し解隊します。

『燃えよ剣』あらすじ(ネタバレ注意!)

     土方歳三

 その男は近在の者から「バラガキ(茨垣)」と呼ばれていた。バラガキとは乱暴者の隠語であるが、男はとにかく無類の喧嘩好きであった。剣の腕も相当立つ。天然理心流の道場「試衛館」で目録を得る腕前である。

 男は武州(ぶしゅう)多摩郡石田村の豪農の末弟として生を受けた。鋭い眼が男の特徴だった。大きく二重の切れ長の眼で、女たちから「涼しい」と騒がれた。一方、村の男どもからは「なにを仕出かすかわからねえ眼だ」と、恐れられた。

 このような男であるから争いごとも常に絶えない。ときには他流派との争いに血を流す。またあるときは、夜這いをかけて好みの女を自分のものとする。喧嘩と女、つまりは血の匂いをこの男は異常に好んだ。

―――のちに「新選組鬼の副隊長」と呼ばれる、土方歳三のことである。

 ときは幕末の騒乱に指しかかろうとしていた。また同時期、コレラなどの流行り病が国土を覆った。歳三の通う「試衛館」道場も他人事ではない。門人が寄り付かなくなってしまったのだ。

 「試衛館」の道場主は、言わずと知れた近藤勇である。近藤は道場の経営に頭を悩ませていた。多数の食客を抱えていたからだ。そんなとき、幕府の官費による「浪士組」徴募の知らせが舞い込んできた。庄内藩郷士・清河八郎の献策であった。

 その頃、京では過激志士達が横行し、まったくの無法地帯と化していた。このことに手を焼いた幕府は、清河の献策を受け入れ、浪士達による護衛部隊「浪士組」を組織しようとしたのだ。ともかく―――歳三は、近藤勇ら試衛館の門人とともに京へと上った。

 ところが……京に到着した清河は一転、「われら浪士一同、幕府の支配から脱し、朝廷のために誠忠をつくす」と宣言をする。清河の真の目的は尊王倒幕にあったのだ。これには幕府方も狼狽し、別な任務を口実に「浪士組」を江戸へ引き上げさせることにした。

 このとき、清河と袂を分け、京の壬生に残留したのが、歳三ら近藤一派八人と、芹沢鴨一派五人、あわせて十三人だけであった。しかし彼らはなんの身分保障もないただの浪人集団である。思案したあげく歳三は、芹沢の伝手を使い、京都守護職・松平(かた)(もり)に嘆願することにした。

 すると、意外にも即日、嘆願は容れられ、彼らの身分は「京都守護職御預」ということになった。―――「新選組」の誕生である。

 この集団は膨れ上がっていった。そこで歳三は西洋軍隊を参考にし、組織をつくり上げた。さらに乱行の目立つ芹沢一派を「士道不覚悟」を口実に粛清すると、歳三は近藤を「新選組」の首領に据えた。つまりは、主導権を握ったのである。

    近藤勇

 その後、歳三は「局中法度書」をつくり、隊の規律を厳しくした。いずれも罰則は、切腹と、戦慄すべき刑法であった。この集団は京洛の志士達を震えあがらせた。なかでも、元治元年六月五日の池田屋の斬り込みは「新選組」の名を不動のものとした。

 前年、京都政権を牛耳っていた長州藩が一夜で政界から失脚するといった事件が起きた。いわゆる文久の政変である。以来、長州藩の若い志士達は過激化していった。そんなとき驚天動地の諜報が「新選組」のもとに入ってきた。

 その過激志士どもが―――京を焼き払い、騒動に生じて、天子様の略取(りゃくしゅ)を目論んでいるというのだ。歳三はこれを「新選組」の武勇を轟かせる絶好の機会と捉えた。京都三条小橋の旅籠に潜伏していた志士達を襲撃し、一網打尽としたのである。

 こうして「新選組」という存在は、幕府からも一目置かれるようになる。しかし、声望が大いに上がるにつれ、近藤は一介の草莽の志士ではなくなっていく。もはや政治家といえる。ところが歳三の思うところは別にあった。

―――「新選組」を天下第一の喧嘩屋に育てたい。ただそれだけである。

 慶応三年三月、「新選組」隊士全員が、旗本に取り立てられることになった。隊士一同は狂喜した。ここまでくるのに血の粛清が繰り返された。しかし、このとき肝心の幕府は、崩壊寸前だったのである。

 その年の十月に、将軍慶喜は大政奉還を朝廷に奏請(そうせい)し、十二月に王政復古の大号令が発せられた。幕府は事実上消滅した。隊内は激しく動揺する。脱走する者も多く現れた。

 ところが、ただひとり歳三は違う。時勢とか、幕府も朝廷も関係ない。単純に節義だけを守り、最後の一人になったとして「新選組」は戦うべきだと主張する。かつて喧嘩に明け暮れていた「バラガキ」が今や、歴史的な大喧嘩をやろうとしているのである。

 明治元年(慶応四年)正月、鳥羽・伏見の戦いをもって戊辰戦争の火蓋が切られた。「新選組」や会津藩は奮闘するものの、錦の御旗が上がり、薩長軍が官軍になったことで、幕軍に動揺が走った。なんと譜代の中にまで寝返る藩が現れたのだ。つまり幕軍は初戦で敗退した。

 その後、潰走し、大坂城に下った「新選組」であったが、歳三の耳に信じ難い知らせが入ってきた。あろうことか朝敵の烙印を捺されるのを恐れた将軍慶喜が、戦を放棄し、大坂城を抜け出して江戸へ逃げ帰ったというのだ。

 歳三ら「新選組」の生き残り四十四人も、やむなく海路、江戸へと移ることになった。江戸の幕閣は、近藤を「若年寄格」とし、歳三には「寄合席格」を与えた。

 ちなみに「若年寄格」という職は、老中の次席で万石以上の譜代大名に与えられる。歳三の「寄合席格」というのも、三千石以上の大旗本である。つまり「新選組」隊長・近藤勇は大名になったのと同然であった。

 しかし、知行地は与えられない。力をもって奪えというのだ。まさに戦国時代さながらである。それでも近藤はよほど嬉しかったのだろう。「甲陽鎮撫隊」として甲州へ出陣するとき、近藤は駕籠を使用した。歳三が諫めても意に介さない。無邪気なものである。

 ところが、―――それが仇となった。「甲陽鎮撫隊」は惨敗を喫した。一足先に到着した官軍に甲府城を奪われてしまったのだ。その後、江戸へと戻った歳三であったが、結成当初からの「新選組」幹部らと、意見の食い違いから分裂してしまう。

 近藤と歳三、二人だけになった「新選組」は、下総(千葉県)流山に戦陣を移した。しかし憔悴しきった近藤に、もはや戦う意思等ない。歳三の静止も聞かず、単身で官軍に投降してしまうのであった。

 江戸城は官軍に開け渡された。それでも歳三の喧嘩は続く。大鳥圭介ら幕府陸軍残党と共に各地を転戦し、会津若松の籠城戦にも加わった。しかし奥州諸藩の藩論が次々と官軍恭順へと傾いていく。歳三は、榎本武揚率いる艦隊と合流し、北海道を目指すこととする。

 北海道へと上陸した一行はまず函館(箱館)を占領し、西洋式要塞・五稜郭に本営を築いた。さらには松前城を奪取すると北海道全域を支配下に置き、榎本を総裁とする蝦夷共和国を樹立させる。

 一方、攻伐を決定した官軍は、四隻の軍艦を函館へと向かわせていた。しかしこのとき既に榎本らは、旧幕艦隊の主力艦を失い、海軍力は半減していた。そこで歳三は宮古湾で軍艦の乗っ取りという大胆な攻撃を試みる。が、失敗に終わった。

 官軍の函館上陸作戦が開始された。歳三は兵五百人程度を従えて、二股口へと向かった。このとき歳三は天賦の才といえる采配で、押し寄せる新政府軍をことごとく撃退する。歳三は函館政府軍における唯一の常勝将軍であった。

 しかし、官軍の増援部隊が次第に増えていき、さらに艦隊の沿岸砲撃が奏功し始めると形勢は一変した。榎本は、五稜郭と函館周辺の防衛のみに兵力を集中させる判断を下す。やむなく歳三も五稜郭まで退いた。

 ついに函館市街は官軍に占拠された。軍議では籠城戦論と出戦論に分かれたが、もはや歳三の気持ちはどちらでもいい。己の最期を考え始めていたのだ。同じ頃、「榎本は降伏するのではないか」といった疑惑がひろがった。

 動揺する函館政府軍において、歳三はあくまで攻勢を続けることを主張する。明治二年五月十一日、わずか五十人を引き連れ、歳三は出撃した。既にこの戦闘を境に、近藤ら仲間達のもとにゆくことを心に決めていたのだ。

―――最後の大喧嘩が幕を切って落とされた。
間断なく破裂する砲弾の中を、歳三は馬腹を蹴り、疾風のように敵陣へと駆けた。砲煙をくぐり抜けると、凄まじい射撃の嵐が待っていた。それでも歳三は、敵兵を馬上から斬りつつ進んだ。しかし、これ以上は進めない。

 覚悟を決めた歳三は、「新選組副長土方歳三」と名乗りを上げ、参謀府に単騎で斬り込みをかけんと敵陣に突撃した。が、そこまでであった。官軍の一斉射撃を浴びた。

―――歳三は死んだ。
剣とともに生きた「バラガキ」の喧嘩人生はこうして終止符が打たれたのである。


土方歳三【辞世の句】

よしや身は 蝦夷の島辺に朽ちぬとも 魂は(あずま)の君やまもらむ
たとえ身は 蝦夷の島辺に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらん

意訳:たとえ私の身が、蝦夷の地で朽ち果てようとも、わたしの魂は東にいる君を守るだろう

(ほこ)とりて 月見るごとにおもふ(かな) あすはかばねの上に照かと

意訳:鉾を手に取って月を見るたびに思う、明日は自分の屍の上に照るのかと

    土方歳三最期の地(函館市若松町)
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あとがき【『燃えよ剣』の感想を交えて】

 かいつまんで、あらすじを書きましたが、物語には土方歳三とお雪という女性の恋愛模様も描かれています。冒頭部分で司馬遼太郎に何度騙されたかと書きましたが、このお雪という女性もです。

 『燃えよ剣』を初読したのは高校の頃でしたが、てっきり実在した人物だと思い込んでいました。司馬遼太郎の上手さは史実と史実のあいだの空白部分を絶妙に埋めることです。思わず「お前、見たのか?」と、突っ込みたくなります。

 さて、『燃えよ剣』という小説を読むたびに思うのが、土方歳三という人間の奇妙さです。武州日野宿石田の豪農の倅なのですから、太平の世なら歴史に名を残すことはなかったでしょう。

 それが幕末期、黒船の出現により世の中は一変します。江戸幕府が築き上げてきた秩序は脆くも崩され、一介の百姓剣客にもチャンスが生まれます。言うなれば、夢を抱いて地方から上京する現代の若者と何ら変わりはありません。

 「剣客でありながら武士ではない」といった、身分という序列にコンプレックス持っていた土方や近藤にしてみたら、これを逃す手はありません。そして実際に武士という身分を手にすると、武士以上に武士らしく生きたいと思うようになります。

 近藤は政治家の一面も持っていましたが、土方の武士を表現する手段は剣と「新選組」しかありませんでした。ただそれだけのためにのみ、自分の生命を使い切ります。ここに土方歳三という男の奇妙さがあります。

 「なぜ剣のために生きたのか?」―――土方自身もきっと分からないでしょう。ただ夢中で必死に生きていただけのような気がします。わたしたちと同じように。

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