はじめに【どこからが「浮気」?】
どこからが「浮気」?―――「浮気」の定義というものは人それぞれです。
中には会話するだけでもアウトと言う人もいるでしょう。または例え肉体関係を持ったとしても恋愛感情を抱いていなかったらセーフと言う寛容な心の持ち主もいます。
「浮気」とは一般的にパートナー以外の人と交際関係にあることを言いますが、それは既婚・未婚に関わらずに使われます。「浮気」と同じような状況を現わす言葉に「不倫」という言葉もありますが、この場合は既婚者のみに適用されます。
ともかくとして、浮気(不倫)は道義的に許されない男女の関係として社会では認識されています。それはいつの時代でも同じようです。作家・志賀直哉も自身の「浮気」が原因で、妻・康子との間で諍いを起こします。
志賀はこの時の体験を基にして四作の短編小説を書き上げています。今回はその中から『山科の記憶』をご紹介致します。
志賀直哉『山科の記憶』あらすじと解説【意識していない浮気心!】
志賀直哉(しがなおや)とは?
大正から昭和にかけて活躍した日本を代表する作家です。(1883~1971)
志賀直哉は、明治16(1883)年、宮城県石巻に生まれ、その二年後東京に移り住みます。
学習院高等科を経て、明治39(1906)年、東京帝大英文科に入学しますが、後に中退します。明治43(1910)年、学習院時代からの友人、武者小路実篤らと同人誌『白樺』を創刊し『網走まで』を発表します。
その後、『剃刀』『大津順吉』『清兵衛と瓢箪』『范の犯罪』などを書き、文壇に認められます。しかしこの頃、父親との関係が悪化し、尾道、赤城山、我孫子等を転々とします。
また同時期には、武者小路実篤の従妹・勘解由小路康子と家の反対を押し切って結婚します。その後父親と和解し、『城の崎にて』『小僧の神様』『和解』『暗夜行路』等、次々と傑作を生みだしていきます。
晩年は東京に居を移し、積極的な創作活動はしませんでした。昭和46(1971)年、肺炎と老衰により死去します。(没年齢・88歳)
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短編小説『山科の記憶』(やましなのきおく)について
志賀直哉は、大正12(1923)年3月から大正14(1925)年4月までの約2年間、京都市上京区粟田口三条坊町に居を構えます。同時期、直哉は、祇園花見小路の茶屋の仲居と浮気をします。
このときの体験を基に、いわゆる「山科もの」四部作(『瑣事』『山科の記憶』『痴情』『晩秋』)を、大正14(1925)年9月から大正15(1926)年9月にかけて発表します。昭和2(1927)年5月、四作は単行本『山科の記憶』(改造社)に収録されます。
・『瑣事』執筆時期:大正14・5、『改造』大正14・9
・『山科の記憶』執筆時期:大正14・12、『改造』大正15・1
・『痴情』執筆時期:大正15・3、『改造』大正15・4
・『晩秋』執筆時期:大正15・7、『文藝春秋』大正15・9
ちなみに四作を時系列に並び替えると、『山科の記憶』『痴情』『瑣事』『晩秋』の順と考えられています。
『山科の記憶』あらすじ(ネタバレ注意!)
「彼」は歩きながら、今別れて来た女性の事ばかり考えていました。しかし家が近づき、妻に偽りを云わなければならないと思うと、それが暗い当惑となって「彼」におおい被さって来ました。
「彼」は他の女性を愛し始めても、妻に対する愛情は変わりませんでした。けれども妻以外の女性を愛するという事は「彼」にとって甚だ稀有な事で、この稀有という事が、強い魅力となって「彼」を惹きつけていました。
※稀有(けう) めったにない、珍しいこと。
「彼」は、(自分の心持ちが暗くなるのは、自分を信じている妻を欺いている事が気になるからだ)と思いながら、玄関の硝子戸を開けました。しかしいつもなら直ぐに出て来る筈の妻が出て来ません。
「彼」が障子を開けると、掻巻に包まり、部屋の隅で転がっている妻がいました。妻は、掻巻の襟から泣いたあとの片眼だけを出して「彼」を睨み、「変だと思って、電話をかけて見たらやっぱりそうだった。」と言いました。
※掻巻(かいまき) 袖のついた寝具のことで、綿入れ半纏の一種。
返事をしないまま火鉢の脇にしゃがみ込む「彼」に妻は、「うまい事をいって、人をだまして……」と言いながら起きて来ました。そんな妻の顔を「彼」は嶮しい眼で見ます。妻は如何にも口惜しそうな顔をしていましたが、その顔は赤味を帯びていました。
「お前、熱があるぞ。」と、額に手をやる「彼」の手を、妻は邪険に払いのけて、「熱なんかどうでもいいの。」と言いました。妻の態度にたじろぎながら「彼」は、「お前とは何も関係の無い事だ。お前に対する気持ちは少しも変わりはしない。」と言いました。
※邪険(じゃけん) (他の人を取り扱う方法などが)意地悪く無慈悲で荒々しいこと。
「彼」は、自分勝手な言い分だと分かっていました。しかし妻に対して不実な気持ちは持っていないという事を繰り返します。ところがヒステリーさを増していく妻には、どんな弁解も通じませんでした。
※不実(ふじつ) 誠意や情愛に欠けていること。事実でないこと。無実。
五分程黙り、少し落ち着いたところで、「去年病院にいた時にも、もし先生が好きになったら大変だ。そう考える方なのよ。」と、妻はふとこんな事を言い出しました。妻の言う「先生」とは若い医者の事です。
続けて妻は、「でも、それはお父様の気持ちなんかとは、まるで別なものよ。」と言いました。そんな妻に「彼」は、「俺の気持ちと別なものとは思わない。意識していないだけだ。」と反論をしました。
その反論に対し妻は一歩も譲らず、「もし私に少しでも疚しい気持ちがあれば、お父様に色々お話はしないわね。」と言い返します。「彼」もまた、「病院を出る時でも、お前はガーゼの取りかえに通うと言った。」と、持論の “ 意識していない ” を主張しました。
そんな「彼」に妻は、「それなら何故、病院に通う事をはっきり止めて下さらなかったの。」と言いました。「彼」はこんな言い争いの中で、“ その事 ” に案外余裕を持っていた事に気が付きます。それは妻の気持ちの純粋さが「彼」に反映していたからだと思いました。
若い医者は気持ちのいい男で、殆ど口を利いた事はありませんでしたが、「彼」は少しも悪い感情を持っていませんでした。退院の時、妻は外来で通うか迷っていましたが、若い医者のいる病院ではなく、山科の病院に通うことになります。
「彼」にとって話しが外れた事は幸いでした。妻は落ち着きを取り戻します。しかしそれが「彼」の事に対する寛大な心持ちを引き出すことにはなりませんでした。妻はどうしても女性と別れる事を断言させるまで我を張ります。
―――結局「彼」は一時的にそれを承知するしか仕方がありませんでした。
『山科の記憶』【解説と個人的な解釈】
前述したように大正14(1925)年、志賀夫婦の間にひと悶着起こります。それは当時43歳の志賀直哉が、20歳くらいの祇園花見小路の茶屋の仲居と秘かに通じていたことが原因でした。志賀はこの一件について以下のように述べています。
「この一連の材料は私には稀有のものであるが、これをまともに扱う興味はなく、この事が如何に家庭に反映したかという方に本気なものがあり、その方に心を惹かれて書いた」
(『続創作余談』志賀直哉)
物語は、「彼」の浮気を発端とする夫婦喧嘩の様相を描くといった至ってシンプルな内容となっています。個人的に印象に残るのは、「彼」が自分の浮気と、妻の「行動には移していない “ 浮気心 ” 」を同一視しているところです。
自分の罪を軽減させる為の方便、 “ 論点のすり替え ” とも言えますが、浮気にまつわるエピソードとしては、ままある事です。結局、妻の “ 純粋な愛 ” に敵う筈もなく、女性との別れを承諾するところで物語は終えます。
至ってシンプルな内容と言いましたが、夫婦間に流れる重苦しい空気、妻の「彼」に対する冷たい態度、そしてそんな妻への愛情を強調し、少しでも自分の浮気を正当化したい「彼」の心境が簡潔に表現されています。
ちなみに『山科の記憶』の初出時、末尾は「(未完)」と結ばれていました。(※単行本収録時削除)このことについて志賀直哉は、「他の愛する女が出来てからの、妻君との交渉を書こうとしているもので、面白くなりそうだが、未完である。」と語っています。
つまり、後に書かれる『痴情』を示唆していたのでしょう。
あとがき【『山科の記憶』の感想を交えて】
冒頭で「浮気(不倫)」ついて書きましたが、「心の浮気(不倫)」というものもあるようです。「心の浮気(不倫)」とは言葉通りで、パートナー以外の異性に好意を抱いているだけの状態を言います。
法的には当然ながら、肉体関係はないのですから「浮気(不倫)」にはあたりません。けれども本気になる場合が多く、いわゆる「浮気(不倫)予備軍」となり得ます。
SNSの発達した昨今、実際は会ったことはない異性にも好意を抱くといったケースが多く見受けられるようになりました。『山科の記憶』の「彼」も、妻の意識していない「心の浮気(不倫)を言っていたのでしょう。
とは言え、二つを同列に語るには無理があり過ぎます。得てしていつの時代も男というものは身勝手な生き物のようです。
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